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山城しんごの城めぐり 国指定史跡 鳥海柵(岩手県金ヶ崎町)
山城しんごの城めぐり 国指定史跡 鳥海柵(岩手県金ヶ崎町)
Wikipediaより鳥海柵跡は、北上川とその支流の胆沢川の合流点から西北西約2.5キロメートル地点で、胆沢川北岸の地点に位置する。胆沢川を挟んで約2キロメートルの地点には、胆沢城跡が所在する。金ケ崎段丘の南扇端に立地し、低地との比高は約10メートルである。その台地は沢田川等の自然の沢で形成された3条の開析谷によって4つに分かれ、北から「縦街道南」「原添下」「鳥海」「二ノ宮後」という地名が残る。その規模は、南北約500メートル・東西約300メートルと推定される。別名・弥三郎館(やさぶろうたて)。前九年の役は、永承6年(1051年)、陸奥守藤原登任と安倍頼良との武力衝突から始まる。合戦の際、安倍頼良(のちの頼時)は、源頼義の勧誘に応じた安倍富忠と戦い、流れ矢に当たり、この柵に帰り死んでいる。康平5年(1062年)9月11日、源氏・清原連合軍に攻められ落柵。衣川関の陥落後、安倍氏はこの柵に拠るが、戦わずしてさらに北の厨川柵へ走り、最後の抗戦をした。厨川柵・嫗戸柵(ともに盛岡市付近)を陥落させたことにより終結するが、その後、後三年の役を経て、奥州の支配権は藤原清衡に始まる奥州藤原氏へと移ることとなる。11世紀前半〜中頃の安倍氏の時代は平泉を中心とする奥州藤原氏の時代の前史と位置づけられる。1958年(昭和33年)から2012年(平成24年)まで19回に亘り発掘調査が行われた。1958年(昭和33年)から1965年(昭和40年)までの西根遺跡調査は、金ケ崎町教育委員会が岩手大学の協力を得て調査を実施し、50棟を超える竪穴建物跡が検出されて注目を集めた。
動画ID:sm44875951
再生時間:15:09
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