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埼玉県入間市に残る南朝史跡・死後も尚足利幕府を震撼に陥れた新田義興・その首塚と御神体 〜愛宕神社〜
埼玉県入間市に残る南朝史跡・死後も尚足利幕府を震撼に陥れた新田義興・その首塚と御神体 〜愛宕神社〜
埼玉県入間市扇町屋にて、楠木正成の盟友・新田義貞公の次男・新田義興公を祀る愛宕神社へ参拝。神社の創建は非常に古く、この地域の集落発生と共に天照皇大神を祀る産土神として崇められた。その後、正平16年に南朝の忠臣・新田義興公が合せ祀られた。時は足利高氏(※「尊氏」の「尊」の字はタカウジが朝敵となった時点で朝廷から剥奪されているので正しい表記「高氏」と記しています)が室町幕府を開いた室町時代初頭、愛宕神社の御祭神の一柱・南朝の忠臣である新田義興公は、父・義貞公の亡き後、正平7年、宗良親王を奉じて新田一族と共に鎌倉の足利軍を攻めて鎌倉を一時占拠、機略に富み、戦上手であったので幕府側はこれを持て余していた。そこで幕府側は幾多の策略を廻らし、義興公はその謀略により正平13年(1358)10月10日、「矢口の渡し」(多摩川)で急され、舟中で13人の家来と共に自刃した。義興公と13士の首は足利方の大将・足利基氏の陣屋(現・入間市駅)で首実験が行われたが、その直後から義興公の祟りによる災害が扇町屋一帯で相次いだ事を受け、正平16年に新田義興公所持の軍扇を御神体とする義興公の御霊が祀られ新田大明神と称し、その首級は拝殿前に丁重に葬むられ、当神社の御祭神の一柱となった。神社の鎮座地名が「扇町屋」と称されるのは御神体が義興公の軍扇である事に由来する。首塚として当地に埋葬された際、目印に松と杉の枝を挿し、その松が根付き「初代の首塚の松」となった。この松には幹の途中で桜が咲き一層神秘性を誘うものがあったが、昭和34年(1959)9月に襲来した超大型の伊勢湾台風で甚大な被害を受け枯死するに至り、現在の松は二代目で隣接している古株が初代の「首塚の松」である。義興公と共に殉節した十三士の従者の首級は愛宕神社周辺に埋められた為散在した...
動画ID:sm45105266
再生時間:17:27
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タグ:神社,歴史,日本史